近代文学を網羅的に読破しようと思い立ち、読書リストを作成しました。
今回はその第一弾、国民的作家夏目漱石の処女作『吾輩は猫である』を読んだので、その感想を書いていきたいと思います。
私は、今まで夏目漱石はほとんど読んだことがありません。
「近代文学の文豪の作品って読みにくそうだな」と思っていましたが、『吾輩は猫である』はユーモラスな文体で、とても読みやすい作品でした。
分量がありますが、細かく章が分かれていて、連作短編のように読めるので、毎日1章ずつ読むのを楽しみに読書していました。
私も猫を2匹飼っていて、日常生活の中で「この猫、バカだなー」と思うことがありますが、内心では色々考えているのか?と想像して面白くなりました。
作中の猫が餅にかじりついて歯が抜けず、二足歩行で踊っているようになる様子は、ありありと想像できました。
作品の解説に移っていきますが、後半に警告した後、ラストの内容に触れて感想を書くので、未読の方はご注意ください。
途中、私の可愛い愛猫たちの写真も載せていくので、お楽しみください。
『吾輩は猫である』の作品紹介
まずは、新潮社のホームページから『吾輩は猫である』の作品紹介を引用したいと思います。
中学教師苦沙弥先生の書斎に集まる明治の俗物紳士達の語る珍談・奇譚、小事件の数かずを、先生の家に迷いこんで飼われている猫の眼から風刺的に描いた、漱石最初の長編小説。江戸落語の笑いの文体と、英国の男性社交界の皮肉な雰囲気と、漱石の英文学の教養とが渾然一体となり、作者の饒舌の才能が遺憾なく発揮された、痛烈・愉快な文明批評の古典的快作である。
新潮社公式ホームページ
国民的文豪、夏目漱石のデビュー作『吾輩は猫である』。
厳密にいうと、本作を連載中に『坊ちゃん』を含む数作が刊行されているので、小説として完成したのは1番最初ではないようです。
ただ、最初に発表した『吾輩は猫である』の第一章で作家としての地位を確立しているので、デビュー作と言っても間違いないでしょう。
夏目漱石自身がモデルと思われる英語教師の苦沙弥先生の飼い猫である、名前のない猫が主役です。
タイトルから分かる通り、主人公の猫の一人称は「吾輩」。
一般的に人間より知能が低いと思われている猫が、格式ばった語り口で、主人の家に集まる人間たちを小馬鹿にして観察している様が笑えます。
読者も苦沙弥先生のモデルが夏目漱石自身だと分かって読んでいるので、飼い猫にも馬鹿にされる苦沙弥先生の滑稽さを、夏目漱石の自虐ネタとして楽しめます。
苦沙弥先生は特にウケを狙っているわけではなく、大真面目にやっているのが、猫の目線を通してみるとすごく滑稽になっているのがいいですね。
『吾輩は猫である』の感想
語り手について(メタフィクション、異化など)
この作品の語り手である猫について、その語りの構造を私なりに考えていきたいと思います。
書評ブログを始める前に読んだ『批評理論入門』の小説技法編に取り上げられていた「メタフィクション」「異化」などのキーワードが参考になりそうです。
メタフィクション
『批評理論入門』では、メタフィクションを「語り手が語りの前面に現われて、読者に向かって、「語り」自体についての口上を述べるような小説」と定義しています。
登場人物が読者に直接語りかけたり、小説世界がフィクションであることに自覚的であったりします。
マーベル映画の『デッドプール』みたいな感じですね。
『吾輩は猫である』では、第二話で猫が「吾輩が有名になった。」ということを語ります。
最初に読んでいる時、小説内で苦沙弥先生が小説を書いていて、読者はそれを読んでいるのだろうかと思いました。
この場合、苦沙弥先生のあの滑稽さは、本人の計算による自虐ネタということになり、「苦沙弥先生は大真面目に滑稽なことをしているのがいいのに!」と感じました。(これは現実に夏目漱石がやっていることなのですが)
しかし、読み進めてみると、猫が直接読者に語りかけていることが分かり、「有名になった」とは、小説世界の話ではなく、現実に夏目漱石が書いた『吾輩は猫である』が有名になったということだと分かり、この小説がメタフィクションの要素を持つということが分かります。
異化
「異化」とは、『批評理論入門』では、普段見慣れた事物から、その日常性を剥ぎ取り、新たな光を当てることと定義されています。
『批評理論入門』は、小説『フランケンシュタイン』を題材にして小説技法や批評理論を解説する本ですが、『フランケンシュタイン』では、誕生したばかりの怪物の目を通して、私たちにとって日常的な世界や人間を異化しています。
他にも、動物が語り手のもの、宇宙人から見た地球人、子どもから見た大人社会、過去からタイムスリップしてきた人が見る現代社会など。
私の好きな映画監督であるヨルゴス・ランティモスの『籠の中の乙女』や『哀れなるものたち』もこの手法が使われていると思います。
『吾輩は猫である』でも猫を語り手にすることで、私たち人間にとっては当然の出来事や立ち振る舞いを見て、「人間は非情だ!」などと言ったりして、人間を異化しています。
猫が語り手であることの利点
一人称小説では、語り手が見聞きしたことしか記述できないという制限がありますが、語り手が猫であるために、普通は他人に聞かせないような内密な話が聞けたり、近所の家に侵入して話を盗み聞きしたりして、人間が語り手での場合はできないことができたりします。
ちなみに、ときどき苦沙弥先生の心理描写が入ったりしますが、これは猫が読心術を使えるからだそうです。笑
事件らしい事件はないが長大な小説
『吾輩は猫である』は、元々第一章だけで完結する予定で発表したものが、人気が出たので続きを書いていったという経緯があるようです。
そのようにして出来た作品でも、新潮文庫でのページ数は624ページという長大な作品となっています。
これだけ長い物語ですが、これといって大事件が起きるわけではなく、苦沙弥先生の家に訪ねてくる個性的な面々の会話や、近所の人間とのちょっとした出来事など、日常的なエピソードが重ねられていきます。
最初に構想したものではなく、後から継ぎ足していったというその創作過程が影響してか、冗長な展開や脱線も多いです。
誰かのエピソードトーク中に、聞き手が割り込んできて別の話をしだしたり、うっかりすると元々何の話をしていたのか忘れてしまいそうになることも…
途中、苦沙弥先生の家に泥棒が侵入するエピソードがあります。
泥棒と猫が対面する緊張の場面でも、いきなり猫が延々と「人間の顔を1人1人違う顔に創造した神は、果たして全能か無能か?」と思索にふけり出し、「一体何の話をしだしたんだ?」と訝しがっていると、最後は泥棒の顔が知っている人物の顔にそっくりだったということを言いたかっただけということが分かります。
しかし、こんな冗長な展開や脱線などがあっても、猫の面白おかしい語り口や個性的な登場人物たちのおかげで、苦労することなくスラスラ読ませてしまうのが、やはりすごい作家だなと思いました。
この後は、『吾輩は猫である』の内容に触れて、物語のラストについての考察をしますので、未読の方はご注意ください。
ラストについての考察(夏目漱石は厭世主義者か?)
最終章は苦沙弥先生の家に主要メンバーが集い、文化批評的な会話が中心となり、語り手の猫は聞き役として影が薄くなります。
内容をざっくり言うと、
- 近代以降は個性の時代
- 個性が発展すると、他人の個性と衝突する
- それぞれが他人より個性を広げようとし、窮屈な世の中になる
- 個性がぶつかり争いが絶えないので、夫婦は必ず別れる
- 芸術は個性が一致しないと相手に通じないので、それぞれが個性を発展させた世界では自分以外にその芸術に感動するものはいない
- そのような世界では、みんな最後は自殺で生を終えるようになる
といった、これまでの面白おかしい会話劇とは雰囲気の違う、厭世的な暗い話です。
猫も話を聞き終わった後は、「呑気と見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする」と言っていました。
この話を聞いた猫もナーバスになっていて、「生きていてもあんまり役に立たないなら、早く死ぬだけが賢いかも知れない」などと言い、人間が飲み残したビールを飲んで泥酔し、誤って溺死してしまうという衝撃のラストにつながります。
夏目漱石自身は、近代以降の個性の時代について、このように悲観的に考えていたのでしょうか。
この問題に関連すると思われることを、夏目漱石は講演『私の個人主義』で語っています。
内容を要約すると、次のとおりです。
- 他人本意ではなく自己本位で個性を発展させる
- 自己の個性を発展させるためには、同時に他人の個性も尊重すること
- 権力を行使するなら、それに付随する義務があることを心得ること
- 自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじること
そして、「もし人格のない者がむやみに個性を発展しようとすると、他を妨害する、権力を用いようとすると濫用にながれる、金力を使おうとすれば、社会に腐敗をもたらす」と言っています。
金力を持つ者の代表として、『吾輩は猫である』では金田が当てはまるでしょう。
金力を使って他人に嫌がらせをするのは、『私の個人主義』でも悪い例として挙げられています。
つまり、『吾輩は猫である』の最後で語られているような個性が発展した未来のようにならないためには、それぞれがしっかり人格を磨くことが大事だと夏目漱石は思っていたようです。
作中で迷亭が言っていたような、みんなが最後は自殺するような社会が来ると本気で悲観していたわけではなさそうです。
【最後に】夏目漱石けっこう好きかも
今、この文章を書いているときにはもう『坊ちゃん』まで読んでいます。
今までほとんど夏目漱石を読んだことはなかったのですが、今のところ、夏目漱石の文体がけっこう好きかもしれないです。
あらすじを引用して知りましたが、『吾輩は猫である』の文体は、「江戸落語の笑いの文体」なんですね。
落語はまったく聞いたことがないんですが、聞いてみたら私の小説執筆にも参考になるかな?
まだまだ未読の作品がたくさんあるので、これから楽しみです!