今回は私が大好きな作家で、海外からの評価も高い中村文則の新作『列』を紹介したいと思います。
中村文則はちょっと自意識過剰でナルシストっぽい文体に露骨な性描写なんかもあって、他人にオススメしにくいところもあります(特に女性には)。
しかし、ドストエフスキーのように、登場人物の暗い内面を書かせるとピカイチだし、純文学でありながら犯罪小説としての、エンタメ的な面白さも兼ね備えた作家です。
図書館の新規入荷欄に名前があったので検索したら、予約が6件も入っていたので「しばらく読めないなー」と思っていたのですが、2週間後にもう一度行くと、普通に本棚に並んでいたのですぐに借りました。
150ページくらいの短い話なので、回転率が良いみたいですね。
これから、ネタバレなしの作品紹介とあらすじ紹介をし、警告後にネタバレ有りの感想を書いていきたいと思います。
『列』の作品紹介
まずは、講談社の公式ホームページに記載されてるあらすじを引用したいと思います。
男はいつの間にか、奇妙な列に並んでいた。
先が見えず、最後尾も見えない。そして誰もが、自分がなぜ並んでいるのかわからない。
男は、ある動物の研究者のはずだった。現代に生きる人間の姿を、深く、深く見通す――。
競い合い、比べ合う社会の中で、私達はどう生きればいいのか。
講談社BOOK倶楽部
この奇妙な列から、出ることはできるのだろうか。
ページをめくる手が徐々に止まらなくなる、最高傑作の呼び声も高い、著者渾身の一作。
ずっと続く列に並んでいて、何で並んでいるのかの記憶もないという、異世界というか、抽象的というか、観念的な世界というか。
中村文則が掌編や短編でよく書くようなシチュエーションだと感じました。
私は中村文則の作品はほとんど読んでいるのですが、実は唯一途中までしか読んでいない作品がありまして、それが短編集『A』。
中村文則は大好きなんですが、笑いの趣味が合わないのか、掌編や短編の不思議な世界観の作品に出てくる、ちょっと笑いを狙っているような話が苦手なんですよね。
「俺は一体何を読まされているんだ…」となる時があります。
とはいえ、掌編の中で、中村文則本人と思われる小説家のNが下半身を露出しながら「これが俺の文学だ」「お花が咲いたよ。お花が咲いたよ」と叫んでいるシーンは声を出して笑いましたが。(本当に、掌編や短編にはこういうのが出てくる!)
今回の『列』もシチュエーションが似た感じだし、パラパラめくった時に、「界王拳2倍!」というセリフが見えたりしたので、嫌な予感がしたのですが、杞憂に終わりました。
自分の苦手なノリはほとんど出てきませんし、第二部に入ってからはぐんぐん引き込まれて、「これぞ中村文則!」と、とても楽しく読めました。
これよりネタバレ有りの感想を書きますので、未読の方は『列』を読んでからもう一度続きをご覧ください。
『列』のネタバレ有り考察
『列』の世界についての考察
列とは、他人と自分を比較してしまう現代の競争社会そのもの
考察とは書きましたが、列がどういったものかは作中で語られていますし、なんなら公式ホームページ記載のあらすじにも書いてありますね 笑
他人と競争し合い、比較し合う現代社会を列に例えて表現していて、列が前に進むと嬉しいし、自分の後ろには誰かが並んで自分を羨んでくれないと満たされない。
仮に列の1番前に来ても、横を見ると新たな列ができる。すべてにおいて1番の人間はいないから、永遠に列に並ぶことになる。
他人との競争を避けたつもりでも、次は幸福や心の平安を競い合い、結局は列に並ぶことになるという。
作中で、列について肯定的に捉えるとしたら、この列がダメになっても、また別の列に並べばいいやと開き直れるということを挙げていましたね。
作中に出てくる締め殺しの木と鳥について
作中に出てくる締め殺しの木については、植物でさえ日光を求める生存競争のため、他の植物を殺害するということで、この作品内ではチンパンジーの暴力性と同じ効果を狙って登場させたものだと思います。
作中にたびたび出てくる鳥については、Wikipediaで調べてみましたが、いまいちよく分からないんですよね。
すべて中南米に住む鳥で、語り手がアマゾンの調査で滞在した時に見たものであること、人によって鳥ではなく別のものに見えることが語られています。
たぶん関係ないのですが、Wikipediaで調べた中で気になった点が2つあります。
1つ目は、赤いショウジョウトキが、しばしば他種の鳥と共同でコロニーを作るという、作中で言及された生物は本能的に保守的という説が当てはまらないということ。
2つ目は、多色のケツァールが、古代アステカ神話でケツァルコアトルの使いとされ(プロメテウスのように人類に火を与えた神らしい)、その羽毛は最高位の聖職者と王しか身につけられなかったそうです。
これだけマイナーな鳥の固有名詞が出てくるので、何か意味があると思うんですが、鳥に詳しい人だったら分かったりするんですかね?
この社会をどう生きていけば良いのか
最終的に列の世界は終わらず、語り手も再び記憶をなくして列に並んでいましたね。
物語の終盤で語られた内容から考えると、今作で中村文則が言いたかったことは、この世界において、もはや他人と競争し合い、比較し合うことは避けられない。ただ、どの列に並ぶかは自分で選択できるので、自分がなりたい自分になれるような列に並ぶようにする。
そして、こんな世の中でも「楽しくあれ」。
語り手は「励ます」という列に並ぶと物語の最後に語ります。
元々善人などではなく、たとえ偽善的であったとしても、そのように振る舞うことで、いつかそれがその通りの人間になれるかもしれない。
社会の構造は変わらなくても、それぞれがそのような気持ちで暮らしていけば、世の中少しは良くなるかもしれないって感じですかね。
平野啓一郎の『本心』で「気持ちの持ちよう主義」と言ってたやつかな?(こちらでは、主人公はこの考え方に否定的でしたが)
猿を介して人間社会について考える
第二部で、語り手が猿の研究者であることが判明し、猿が物語の重要な要素になっていきます。
猿について考えることで、人間の存在についても新しい視点が与えられるという感じですね。
小説家って、こういう面白い題材をどうやって見つけてくるんだろう?
あまりにも上手くできていて、作中の研究者のように、中村文則が面白い小説を書くために猿の習性を捏造したんじゃないかと疑いたくなりますね 笑
ここから、作中で語られた猿の興味深かった話をいくつか振り返りたいと思います。
猿の階級社会について
猿の群れはボス猿がいて、ナンバー2、ナンバー3と、はっきりした階級社会だというのが私の印象でした。
しかし、これは動物園や、人工的に餌場を管理されている場所のみに現れる現象で、自然の群れでは明確なボスはなく、もっとゆるい社会とのこと。
やはり、餌の総量か限られていると、強い猿が幅を利かせてくるんでしょうね。
列の世界の解説に出てきた「幸福の総量が〜」という部分を、猿の場合は餌=幸福と単純化できるかもしれません。
人間は知性があり、猿より自由になれそうなものなのに、自分たちで作った社会の構造に縛られて窮屈な思いをし、格差も広がっています。
チンパンジーとボノボについて
チンパンジーは、男性社会で性暴力があり、他の群れと遭遇したら戦争するらしく、それが1番人間にDNAが近い動物だと言うなら、人間も絶望的だなと作中で語られます。
しかし、チンパンジーと同じように人間とDNAが近いボノボという種類は、女性社会で、他の群れと遭遇した場合、群れ間の緊張を和らげるため、その場で性行為をするそうです。
なので、ボノボよりに人間が進化していけば希望があるんじゃないかと語り手は言います。
暴力と性。中村文則が好きそうな話だと思いました 笑
猿というと、人間が退化した姿というか、進化前の姿って考えてしまいがちだけど、途中で分化しただけで人間と平行してこの世界に共存してるんだよなあと感じました。
猿とプロメテウスについて
プロメテウスは、火がなくて凍える人類を不憫に思い、神の世界から火を盗んで人類に与えたギリシア神話の古い神です。
このことがゼウスの怒りを買い、ワシに肝臓を食われ続けるという罰を与えられます。
作中でも言及されていますが、語り手が猿に火を使わせようとするのはこのプロメテウスの逸話のパロディですね。
論文を書くために猿に火を使わせるというのは、映像的にも、語り手の冷静な狂気を描くにもすごく良い題材だなと思いました。
語り手は猿に同情して寄り添っているように見えますが、自分と猿の関係を神と人類の関係に重ね合わせるというのは、猿を自分より下に見ていることの証ですよね。
終盤に「ベビーカーを押している母親に本当に場所を譲るつもりで申し出れば良かった。これは、母親が列の後ろにいると知ったからだろうか?」と言い、自分より下の者に対して無自覚に優しくする可能性について触れられています。
過去作オマージュ?中村文則あるある
私は中村文則の小説を、単行本になっているものはほとんど読みました。
『列』を読んでいると過去作のオマージュなのか、それとも単に中村文則の好きな表現なのか、中村文則のあるあるな展開or表現がいくつか出てきました。
例えば、
「⚪︎⚪︎だね」と私は言った。(←建前)
△△だねとは言わない。◻︎◻︎だねとは言わない。(←心の中で思っている本音)
みたいな表現。
語り手の精神のバランスが崩れてくると、△△とは言わないと言ったあとに「△△」って言っちゃったりします。
『迷宮』で出たのが最初かな?(違ってたらすいません)
他には、自分の人生を左右してしまうような悪いことを、「やらないけど、ちょっと手前までやってみる…」みたいなのをしつこく描写するのもよく使いますね。
人を突き落とす一歩手前、後ろから背中に向けて手を伸ばしてみるみたいな。
本当にやっちゃうかどうかはその時によって違いますが、毎回ドキドキしてしまう自分は中村文則の術中にハマっている…
あとは、猿の耳を切り取ってポーチに入れてるのは、『遮光』っぽいなと思いました。
猿に火を使わせようとする場面では、デビュー作『銃』の文庫版に収録されている『火』と関係してるかと思って読み返しましたが、あまり関係なさそうでした。
中村文則は、文学的な狙いを説明しすぎ?
最近の中村文則作品では、読者の解釈の幅が大分狭まっている気がします。
作品の文学的な狙いが、以前なら連想させる程度に留めていたのが、作中ではっきり言及したりして、悪く言えば説明的になったとも言えます。
『この先の道に帰る』の文庫版あとがきで、「もう刊行から数年経ったので書きますが、実は何某は性的な色と言われる紫の服を着て、それを曖昧な色と言われるベージュのカーディガンで覆っている云々」と説明し、「本来は評論家の仕事だけど誰も触れている人がいなかったので。もちろん他にもいっぱいありますが」と書いているのを読んで、そういう傾向を感じていました。(今回も紫色の服を着た女性が登場しますが、たぶん偶然でこれと同じ意図はないですよね?)
『列』では、猿に火を使わせようとしている場面で「おっ、これはプロメテウスのオマージュだな!」と得意な気持ちになったところで、数行後にプロメテウスに言及され、「読み解いたと思ったのに…」と肩透かしをくらいました。
あとは、「知性」「幸福」「平和」等名付けられた猿たちが行政に殺処分されるシーンでは、その名前の猿たちが淡々と殺されていっても読者は感じるところがあると思うんですが、説明的な一文が入っていた気がします。
最初はこの傾向を、「俺はこんなことまで考えて小説書いてるぜ!」という、滲み出るナルシズムか、文学的な狙いを意図しない内容で解釈されて、嫌な気持ちになったからかなと思っていました。
しかし、最近は政治的な主張等を全面に出してきていることから推察すると、明確に読者に伝えたいことがあり、作家としてのメッセージを読者に伝えることを優先させた結果かなと思い直しました。
そして、説明的だからといって、中村文則の文学の面白さはまったく損なわれていないと思います。
『列』以外もたくさんオススメあります
公式ホームページのあらすじには、「最高傑作の呼び声も高い」と書かれていましたが、さすがにそれはない!と思いました。
面白い作品ではありますが、中村文則には面白い作品がもっといっぱいありますよ!
最後にいくつか紹介して終わりにしますので、未読の方はぜひ読んでみてください。
掏摸(すり)
天才掏摸師が、木崎という恐ろしい男に脅されて、超難解ミッションに挑むという、あらすじだけ聞くとハリウッド映画みたいな話ですが、大江健三郎賞を受賞した完全な純文学ですね。
大江健三郎賞の副賞として、翻訳出版されるというのがあり、これが海外での評価に繋がり、掏摸の英訳はアメリカ「ウォール・ストリート・ジャーナル」2012年ベスト10小説に選ばれています。
姉妹編の『王国』もおすすめ。
教団X
中村文則が、現時点での最高傑作を書こうと意気込んで書いた最長の長編。
ある老人を中心にした宗教団体と、それと敵対する性の解放を謳うカルト教団の間で翻弄される4人の男女。
宗教、運命、セックス、貧困、テロリズムなどなど、あらゆる問題について語られる。
中村文則にとっての『カラマーゾフの兄弟』!
カード師
違法賭博のディーラー兼タロット占い師の男。
中村文則作品によく出てくるタイプの闇社会のフィクサー的人物に占い師として近付くというミッションを遂行することになります。
途中に出てくる、違法賭場での命懸けのポーカーの場面だけでも読む価値あり!